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2014年09月03日
私たちは南海電車・阪和線に乗って大阪に行くとき大和川を渡ります。今は何でもないように何十秒間で渡りきりますが、この川が付け替えられたと、ご存じの方は少ないかと…最近の人は地域の小学校副読本で学習をしているのでご存知ですが…江戸時代の中期までは現在の柏原市の市役所あたりから北に流れ、鴻池新田あたりで左に折れ、大阪城の北側で淀川に合流していました。
この大和川が付け替えられたのは江戸時代の元禄~宝永のころ(忠臣蔵の少し後の1704年2月27日から工事は始められました)です。それまでは、現在の東大阪市あたりは旧大和川が上流の土砂を運んで天井川になり、度々、洪水を起こしていました。そこで、百姓たちが幕府に大和川の付け替えを訴えたのですが、それから50年ほどかかって工事が始まりました。
大和川の付け替えは、その昔、和気清麻呂が天王寺あたりに大和川を通そうと、工事をしたところ、上町台地の岩盤に阻まれ断念した経緯があります。その名残が天王寺あたりの堀越町、河堀口、河堀稲生神社などの地名が残っています。
江戸時代の付け替え工事は、海のほうから進められました。今の浅香山のあたりは岩盤が固く掘り下げに大変苦労したようで、ちょうどそのころ工事を担当していた姫路藩の殿様、本多中務大輔忠国が死去。このアクシデントで付け替え工事も一時、中断。それが「狐」の祟りだと考えた人は「浅香山稲荷神社」に狐の供養をしました。
幕府は上流から5.7㌔を①幕府直轄の工事(約半分)、残りを②岸和田藩2.5㌔、③三田藩2.5㌔、④明石藩2.5㌔、河口の1.1㌔を⑤姫路藩の組み換えをして工事を再開しました。
当時の岸和田藩のお殿さんは岡部美濃守長泰で5.3万石でした。御手伝大名に任命されたのが、宝永元年(1704年)4月1日。4月18日に普請場所が引き渡され、約1週間後の4月26日、担当箇所の下流部の城連寺村領内から工事が始まりました。城連寺村では、この時期まだ青い麦で、収穫にはできないので、少しの猶予を願い出ましたが、認められません。作付面積の3分の2程度の刈り取りで村人は諦めることになりました。
工事の日数は225日、かかった費用約71503両(1両は現在の約20万円)、川の長さ約14.3㌔、川の幅約180㍍、堤防の高さ約5㍍
工事は1704年の10月13日(新暦11月10日)の大安吉日に、万年長十郎・長谷川六兵衛の両奉行が立会い、新川切り通しがおこなわれました。
このように、一時、姫路藩の撤退のアクシデントは、結果的に、公儀普請が急遽取り入れられたことに合わせて3~5藩の分担・平行工事を生むこととなり、弥が上にも競争心を煽られ、お互いに競い合ったことから、工期は当初の予定を大幅に短縮することになりまた。
その工事の成功のおかげで、幕府に岸和田藩は治水・河川工事に、よい評価を受けました。その前年から始まったとされる「だんじり」にも祝賀気分で大いに勢いがついたといわれています。
第1回 岸和田と大和川
私たちは南海電車・阪和線に乗って大阪に行くとき大和川を渡ります。今は何でもないように何十秒間で渡りきりますが、この川が付け替えられたと、ご存じの方は少ないかと…最近の人は地域の小学校副読本で学習をしているのでご存知ですが…江戸時代の中期までは現在の柏原市の市役所あたりから北に流れ、鴻池新田あたりで左に折れ、大阪城の北側で淀川に合流していました。
この大和川が付け替えられたのは江戸時代の元禄~宝永のころ(忠臣蔵の少し後の1704年2月27日から工事は始められました)です。それまでは、現在の東大阪市あたりは旧大和川が上流の土砂を運んで天井川になり、度々、洪水を起こしていました。そこで、百姓たちが幕府に大和川の付け替えを訴えたのですが、それから50年ほどかかって工事が始まりました。
大和川の付け替えは、その昔、和気清麻呂が天王寺あたりに大和川を通そうと、工事をしたところ、上町台地の岩盤に阻まれ断念した経緯があります。その名残が天王寺あたりの堀越町、河堀口、河堀稲生神社などの地名が残っています。
江戸時代の付け替え工事は、海のほうから進められました。今の浅香山のあたりは岩盤が固く掘り下げに大変苦労したようで、ちょうどそのころ工事を担当していた姫路藩の殿様、本多中務大輔忠国が死去。このアクシデントで付け替え工事も一時、中断。それが「狐」の祟りだと考えた人は「浅香山稲荷神社」に狐の供養をしました。
幕府は上流から5.7㌔を①幕府直轄の工事(約半分)、残りを②岸和田藩2.5㌔、③三田藩2.5㌔、④明石藩2.5㌔、河口の1.1㌔を⑤姫路藩の組み換えをして工事を再開しました。
当時の岸和田藩のお殿さんは岡部美濃守長泰で5.3万石でした。御手伝大名に任命されたのが、宝永元年(1704年)4月1日。4月18日に普請場所が引き渡され、約1週間後の4月26日、担当箇所の下流部の城連寺村領内から工事が始まりました。城連寺村では、この時期まだ青い麦で、収穫にはできないので、少しの猶予を願い出ましたが、認められません。作付面積の3分の2程度の刈り取りで村人は諦めることになりました。
工事の日数は225日、かかった費用約71503両(1両は現在の約20万円)、川の長さ約14.3㌔、川の幅約180㍍、堤防の高さ約5㍍
工事は1704年の10月13日(新暦11月10日)の大安吉日に、万年長十郎・長谷川六兵衛の両奉行が立会い、新川切り通しがおこなわれました。
このように、一時、姫路藩の撤退のアクシデントは、結果的に、公儀普請が急遽取り入れられたことに合わせて3~5藩の分担・平行工事を生むこととなり、弥が上にも競争心を煽られ、お互いに競い合ったことから、工期は当初の予定を大幅に短縮することになりまた。
その工事の成功のおかげで、幕府に岸和田藩は治水・河川工事に、よい評価を受けました。その前年から始まったとされる「だんじり」にも祝賀気分で大いに勢いがついたといわれています。