第11回 大和川はもともと?④ | 和ホームの地域貢献

2015年06月19日

第11回 大和川はもともと?④

付け替え工事は1704年10月13日に終わりました。
 
 
・大和川の付け替えがもたらしたもの①
 
■千年以上も続いた河内・摂津の度重なる洪水からの解放されました
(以下は、河内、キャベツ哀話を紹介:布施・河内・枚岡の三市が合併して東大阪市になる以前の新聞から:
 昭和33年12月、朝日新聞「大阪新地図45河内市より抜粋)
 
「河内、中甚兵衛さんの子孫、中敬男さんは明治の大隈重信に可愛がられていて、よく出入りしていた。
 重信公はあるアメリカ渡米のキャベツの種を中さんに、プレゼント。
 中さんは近くの末吉幸八さんに作らして、見事に結球したが、食べ方がわからない。
 その後、大隈公がフィリッピン公使と会見のときに持ち込んだところ、
 こんな立派なキャベツを見たことがないと、
 すぐに輸出の話がまとまった。
 一貫匁二十五銭。米は一石十五円と言う明治25年ことだから、びっくりするほどいい値段だった。
 中さんの自宅付近の今米地区は、栽培面積990アールにも及んでいた。
 その後フイリッピンの使節がその畑を見にきた。
 村人が得意げに使節の人に「人糞」を施すといった作業を見せたから、たまらない。
 取引はいっぺんに中止になった。
 しかしその後、中さんの子孫がトマト、アスパラガス、セロリ、アーチチョークなどを皆に分けた。
 こうして河内の西洋野菜栽培の伝統は育った」
 
■古大和川筋・深野新開池跡の新田開発
工事終了後と共に、旧川筋や沼地は、大坂だけではなく江戸の町人も加わるという大事業として干拓され、開発された新田の規模は1000町歩、新川による潰れ地の四倍近くにもなりました。
3年間の年貢が免除される開発期限を終え、宝永5年(1708年)に検地が実施されています。
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■綿作の栽培
新田の産物の第一は木綿でありました。
そもそも河内の綿作は近世初頭から始まり、はじめは高安など生駒山麓に多く見られた「山根木綿」として知られていました。
それが大和川付け替えで、新たに多くの農地が生まれました。
これらの新田の土質は砂地が多く、水田には不向きだったが、逆に水はけが良いことと、伏流水という豊富な地下水があることが、綿の栽培に適していたために、綿作がその平野部に広がりました。
 
近くに大坂・京都・近江といった大きな供給市場に恵まれていたこと、また肥料として干しか・油粕などが導入されたことも大きく影響したと思われます。
更に、庶民の衣料が麻布から綿布に転換され需要が急増してきたという時代背景もあるように思います。
 
新田での綿作が高収入をもたらすと言うことで、今まであった田畑にも波及していきました。
耕作形態がいろいろ工夫され、近代化されていくことになります。
そのひとつが「田方綿作」と言われるもので、乾いた水田で表作で「稲」と」「綿」を一年交代で作るという耕作でした。

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