第15回 大和川と奈良の都 | 和ホームの地域貢献

2016年02月25日

第15回 大和川と奈良の都

●都の建設も引越しも大和川を通って
藤原京は日本で初めて大規模な首都でした。
中国の都を真似て、中国より立派な都を作ろうとしていたようですが16年で終わりました。
708年に遷都が決まり平城京北の丘陵で屋根瓦を焼くなど、準備が進められました。
藤原京の建物も解体し、奈良県の佐保川を通って、船で運ばれました。
一万人以上が徒歩や馬で引越し、大きな荷物を船で運んだと想像されています。
74年間続いた奈良時代の始まりです。
 

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●川と生活
地方には竪穴式住居があった時代ですが、都では貴族は煌びやかな衣装を着けて御殿に住んでいました。
東と西の2つの市に全国から集められた品物が並び、賑わったようです。
市に物資を運ぶために大和川の支流の秋篠川・佐保川の流れをかえ、道路に沿って東西に堀川を作りました。
生ゴミやし尿が水路を流れ、伝性病などの流行の元になったようです。
顔の絵を描いた土器や人形が川に流されてた事がわかっています。
病気や不幸などから逃れるための「おまじない」だったようです。
 
大和川が堺市浅香で大きく曲がっている秘密?
 
●大和川が杉本町あたりで半円形に迂回しているのはなぜ?キツネ?
江戸時代の大和川付け替えのとき、このあたりまで上町台地が伸びていて、岩が硬くて、なかなか掘り進めなかったので堺市側に川筋を取ったということです。
大和川の付け替え工事は海のほうから進められました。浅香山あたりで掘り下げに苦労をしていました。
工事を担当していた姫路藩の殿様が亡くなり、キツネの祟りと考えた人は浅香山稲荷を祭り直しをして、キツネの供養をしました。
すると夜中にキツネが化けて工事を助けたという伝説があります。
今でも浅香山稲荷神社では江戸時代当時の工事奉行が寄進した、石灯籠や手水鉢が残っています。
付け替えでは大和川は自然に流せば北西に流れるはずですが、住吉大社など大きな町に当たるためと、西には「依網池」や「浅香の谷」がありました。
そこでその地形を利用して上町台地の部分を9メートルほど掘り下げて浅香・狭間川に合流させたようです。
大和川は依網池の真ん中を通り、北に進んでいた西除川も池の南側に付け替え、浅香で合流させました。
 

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