「黒門市場」のお話しです。
こんにちは。
「木」が大好き!和ホームの椎葉正四です。
11月もいよいよ終わりに近づいてきました。
来週は、なんと!!12月です。
みなさまも、お忙しい季節に入りますが、体調には
お気をつけくださいね。
さて、一昨日の夕刊に「黒門市場」の話題が出ていました。
私は、若い頃、よくこのあたりを含めた、いわゆる
「ミナミ」に行ったものです。
もう40年くらい前のことになるかもしれません。
九州の宮崎の田舎から出てきた私にとっては
ミナミは、「大都会」で、あこがれの街でした。
ちょうど、今くらいの季節になると、お正月に向けて、
しばしば、黒門市場の話題が、上がってました。
今日は、この黒門市場について少し書いてみます。
そもそも、黒門市場とはどのあたりにあるかですが、
写真のマップをご覧ください。
関西の方であれば、およその見当はつくと思います。
難波駅から、東へ800m程度のところくらいに
当たるでしょぅか。
それでは、そもそもいつこの黒門市場が出来たかですが、
江戸後期の文政5年~6年の頃に、毎朝魚商人、
がここに集まり、魚の売買をし、
午後には諸方のなぐれ魚(売れ残りの魚)を持ち寄り
売り捌くことになり、それが、堺筋に沿った
黒門市場に発展したということです。
しかし、それらの露天商は、国内博覧会(明治36年)の開催を機に
その景観を損なうので、その開催直前に堺筋から路地を入った、
黒門筋に市場を開設したことで、現在の黒門市場の原型が
出来たとされています。
では、黒門市場の「黒門」名の由来はなんでしょぅか?往時、今の日本橋二丁目交差点東南角に、
堺筋に面して圓明寺という大きな寺がありました。
黒門市場は圓明寺市場と呼ばれた時期があったそうで、
圓明寺の東北側に黒門が建っており、
寺が明治45年1月の南の大火で焼失し東住吉区に移転すると、
市場が寺の黒門をシンボルとして受け継ぐことで、
「黒門市場」と称するようになったということです。
因みに地図は、明治44年(1911)南の大火前年の地図。
堺筋はまだ拡張されておらず、千日前通りもまだ
見当たりません。写真は、堺筋と千日前通りの
交差点ですが、時代も変わったものですよね。
今や「黒門」は、アジアのブランドになりつつあります。
私も長らく足を運んでいませんが、今年のお正月の
買い出しに少し様子を見にいきたいと思っています。
最後まで読んで下さり有難うございました。
ランキングに参加しています。
励みになります。
↓下をポチっと応援クリックお願いいたします。↓