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第8回 大和川はもともと?①
現在、大和川は大阪市と堺市の間を、大阪湾に流れ込んでいますが江戸時代の中ごろまでは・・・
・付け替えられた大和川
奈良盆地の水を集めて流れる大和川は、生駒山地と金剛山地の間を通って大阪平野に流れています。
大阪平野では、上町台地が南から北に突き出ているため、東から流れてきた石川と合流して北へ流れていきました。
そして、大和川は玉串川、久宝寺川などに分かれて流れながら、大阪城の北で淀川(今の大川)に合流し、大阪湾に流れ込んでいました。しかし、川が運んできた土や砂が溜まるため、大雨が降ると大和川の川沿いで水があふれてしまうことになり、洪水になることが多かったそうです。
今から1200年くらい前、和気清麻呂が攝津の地方長官だった頃、大和川の度々起こる洪水を今の天王寺公園の南側を通して、大阪湾に付け替えようと考えました。しかし、途中に上町台地の坂があったため、たくさんのお金と人手をかけましたが、完成しませんでした。今のJR天王寺駅の近くがその工事跡だといわれています。堀越町、河堀口、川底池、堀越神社などその名残があります。
・反対の村もありました
今から350年前、今の東大阪市今米の庄屋をしていた「甚兵衛」という人が、仲間と力を合わせて、洪水を防ぐには大和川の水を石川との合流点から西の堺のほうへ流すのが一番いいと考えて、江戸幕府に大和川の付け替えを願い出ました。
しかし、なかなか幕府の許可が下りませんでした。幕府の中でも様々な意見が出てきました。もともと大和川の流れは緩やかで、曲がりくねっていたので、川底に砂が溜まり、それを取り除かないと、川は次第に浅くなってしまいます。
江戸時代になると、人口も増え山の木を沢山切るようになると、大雨のときに上流から流れてくる土や砂が更に増えました。その為、幕府は大和川の川底を何度も掘ったり、堤防を高くする工事をしましたが、それでも洪水が収まりませんでした。それどころか工事を繰り返した後にも大きな水害が起きたこともありました。
・50年もかかりました
そこで、とうとう江戸幕府は「甚兵衛」の訴えのような大和川を付け替えることに決めました。それは「甚兵衛」の訴えから50年近くもたった1703(元禄15)年のことでした。1703年といえば赤穂浪士の吉良の屋敷に討ち入った年です。
付け替え工事は1704年2月27日から始められました。