第10回 大和川はもともと?③ | 和ホームの地域貢献

2015年04月22日

第10回 大和川はもともと?③

付け替え工事は1704年10月13日に終わりました。
 
・大和川の付け替えの後
大和川の付け替えで人々の暮らしはどのように変わったのでしょうか?
大きな川や池のあとを大商人などが新田として開発をしました。
新田は主に久宝寺川、玉櫛川、深野池、新開池などの跡に造られました。
又、東除川、西除川、大乗川、よさみ池などの跡にも造られました。
付け替えで、干上がった旧の川筋では砂地になった農地は水履けが良すぎて、米は育ちませんでした。
第10回_1
米作りに向かない砂地では、米作りより手間がかかりますが、高く売れる「綿作り」が盛んになりました。
「河内木綿」というブランドで全国に売られ有名になりました。
 
河内木綿は繊維が太く、丈夫で長持ちしたので、浴衣やあっし、旗、酒絞りの袋、足袋の底などに使われました。
その後、明治期に入り、この地域は綿の産業が興り、綿の紡績工場も出来(平野紡績)、その後、大阪市内に大きな紡績工場が移り、その後、大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれるようになりました。
 
現在の大阪の賑わいは、遡れば「大和川付け替え」で生まれた「河内木綿」からだ・・・とも言えます。
大和川の付け替えは、当時の農民だけでなく、町の人々の暮らしや、その後の大阪の町の発展にとっても、大きな出来事になりました。
 
しかし、元の大和川の川筋や元の東除川、西除川などの川筋では、田畑に引く水が不足するようになり、人々は大変な苦労をしました。
一方で新しい大和川の川筋では、元にあった田畑が川底になり、代わりの土地を開く苦労した人々いました。
又、村が新しい大和川の両側に分かれたので人々の行き来も難しくなる人々もいました。
又、川を新しい大和川に合流させたところでは水はけが悪くなり、大雨が降るとよく洪水が起こりました。
現在でもこの地域は時々、洪水が起こります。
 
・堺の港の移り変わり
堺の港は、昔から人や荷物を運ぶ大小の船が出入りする賑やかな港でした。
しかし、大阪城に向かっていた大和川がこの堺港に河口を移したのでした。
この新しい大和川が運んでくる土や砂がだんだんと溜まり、堺港の水深が浅くなっていきました。
その為に大きな船が境港に入港できなくなり、江戸時代に6回も港を作り変えなければならなくなりました。
しかし、大和川の運んできた肥沃な土で河口に新田(南島新田など)が6つも出来ました。

第10回_2

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